17世紀の江戸
幕府は大工事を行い、地形を大きく変化させた。 城に面した日比谷入江は家康の入国後すぐに埋め立てられ、平川は迂回させられ、洪水の危険を抑えるため、いくつかの防護堀や物流用水路が掘られた。 湾内の埋め立て工事も始まり、幕府が存続する間にいくつかの地域が埋め立てられた(特に築地周辺)。 9065>
淡水は大きな問題で、都市が河口の上に位置しているため、直接井戸を掘ると汽水が出ることになった。 市内にあった数少ない淡水池を活用し、市の西側や多摩川から淡水を運ぶ運河網や地下木管が整備された。 このインフラの一部は20世紀まで使用された。
都市の一般的な配置編集
武蔵野段丘の先端に位置する江戸城を中心に城下町として整備された都市である。 江戸城の周辺は、武家屋敷と大名屋敷で構成され、その家族は三権分立で江戸に住み、大名は年ごとに江戸に参勤交代し、その側近として屋敷を使用した。 各邸宅の位置は、役職(当座・当代)に応じて細かく決められていた。 特に京都や大坂は、大名が支配する都市でもなく、武士の人口も多くはなかった。 京都は朝廷、公家、寺院、歴史、大阪は商業の中心地であり、長者番付で上位にランクされていた。 一方、武家屋敷や大名屋敷は、江戸の面積の7割を占めていた。 城の東側と北東側には、長男を含む一般庶民が住んでおり、武士階級よりもはるかに人口密度の高い、町と呼ばれる集落を形成していた。 この地域は下町と呼ばれ、都市文化や商人文化の中心地であった。 また、都に出入りする主要な街道沿いには、正民が住んでいた。 市の東側には、当時大川と呼ばれていた隅田川が流れていた。 9065>
日本橋(日本橋、Let.Japan)は、幕府の御用蔵や御用建物が置かれたところである。 「日本橋は商業の中心地であり、御街道の起点でもあった(事実上の「天下の中心」)。 漁師や職人などの生産者、小売業者がここで商売をしていた。 9065>
北東部の一角は、陰陽道では危険とされ、浅草寺や寛永寺(徳川の菩提寺)など多くの寺院が魔除けのために存在していた。 浅草寺の北側には、隅田川の河原から西に延びる道と運河があり、街の北端から吉原に通じていた。 以前は人形町付近にあったが、明暦の大火の後、より離れたこの地に再建された。 9065>
寺社は市域の約15%を占め、町民の生活圏に相当するが、平均すると人口の10分の1である。 寺社は市内に点在していた。
住居編
武家編
武家や大名の住居は身分によってその規模が大きく異なる。 大名の中には、江戸に複数の屋敷を持つ者もいた。 上屋敷は、大名が江戸にいる間の主な住居であり、公務に使用された。 必ずしも大きな屋敷ではなかったが、城への通勤に最も便利であった。 中屋敷は、城から少し離れた場所にあり、藩主の嫡男や、藩主が参勤交代で江戸にいるときの奉公人、あるいは隠居所として利用された。 下屋敷は町外れにあり、庭園を持つ保養地であった。 また、下屋敷は、火災で町が焼け落ちた場合、領主の隠居所として使われることもあった。 9065>
上人編
長者というのは厳密には住居を持っている町人であって、実は少数派だったのである。 長屋と呼ばれる木造の集合住宅は、町内を囲むように建てられ、井戸やゴミ置き場、共同風呂などの共同設備があった。 典型的なマチは長方形の形状で、数百人の人口を抱えることもあった。
深川江戸資料館の長屋展示
町の表通りには、木戸門と呼ばれる門があり、夜は門限を設けて警備をした。 この表通りに面して、2階建ての建物や、身分の高い人だけが利用できる大きな店舗が並んでいた。 町は通常、碁盤の目状になっていて、大通りに面して小さな通り「新道」があり、これも(時には)2階建ての建物で、1階が店、2階が居住区となっていて、より裕福な住民のためのものであった。 路地と呼ばれる小さな門をくぐって奥に入る狭い道には、一階建ての長屋、裏長屋が建っていた。 その裏長屋には、下級上人のための借家や小部屋があった。
江戸は、その数の多さと多様さから「江戸八百八町」と呼ばれたが、実際の数は18世紀には1700に迫っていたという。 フォトクローム・プリント。 5枚のアルブメン・プリントをつなぎ合わせてパノラマにしたもの。 撮影者 フェリーチェ・ベアト