パリへの移住、ピエール・キュリー、そして最初のノーベル賞

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1891年にパリに渡ったスクロドフスカは、マリーを名乗り、ソルボンヌ大学でポール・アペル、ガブリエル・リップマン、エドモンド・ブーティの講義を受けはじめました。 そこで彼女は、ジャン・ペラン、シャルル・モーラン、エメ・コットンといった、すでに有名になっていた物理学者たちと知り合った。 スクロドウフスカは、学生寮のガレージで夜遅くまで働き、パンとバターと紅茶で生活していたようなものだ。 1893年、彼女は物理科学のライセンスで1位になった。 その後、リップマンの研究室で働き始め、1894年には数理科学で2位になった。 この年の春、ピエール・キュリーと出会う。

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二人の結婚(1895年7月25日)は、特に1898年の夏にポロニウム(マリーは彼女の出身地に敬意を表してこう呼んだ)を、その数ヵ月後にラジウムを発見し、世界的に重要な結果を出すことになるパートナーシップの始まりであった。 アンリ・ベクレルが新しい現象(後に「放射能」と呼ぶ)を発見した(1896年)後、マリー・キュリーは論文のテーマを探し、ウランで発見された性質が他の物質でも見られるかどうかを調べることにしたのである。

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鉱物に目を向けると、彼女はピッチブレンデに興味を持ちました。その鉱物は純粋なウランよりも優れた活性を持ち、鉱石の中に非常に高い活性を持つ未知の物質が少量含まれることによってのみ説明できることがわかりました。 キュリー夫人は、この問題を解決するために、ポロニウムとラジウムという新元素の発見につながる研究に参加した。 ピエール・キュリーが新元素の物理的研究に専念する一方、キュリーの弟子で化学者のアンドレ・ルイ・ドゥビエールの協力を得て、金属状態の純粋なラジウムを手に入れることに成功した。 この研究成果により、キュリー夫人は1903年6月に理学博士号を取得し、ピエールとともに王立協会のデイヴィ・メダルを授与された。

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1897年と1904年に2人の娘、イレーヌとエヴェを出産しても、マリーの集中的な科学研究は中断しなかった。 1900年にはセーヴルの高等女学校の物理学教師に任命され、実験的な実証に基づいた教育方法を導入した。 1904年12月にはピエール・キュリー率いる研究室の主任助手に任命された。

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